「伽藍堂」
「私」を満たして 「私」で満たして 殻の中は空の⾝体
滿足了「我」 以「我」填滿 軀殼之中為空洞的身軀
故に浮遊⽉の様に 揺蕩うばかりの意識 命の重さは微塵も無い
故此如浮游之月般 惟意識飄蕩 生命的重量塵微
姿形は其処に在れどソレを何と呼ぶのだろう
儘管形體存在於此亦無從稱之
膨らんだ夢想もただの無相 何も無い
膨脹的夢想亦只是無相 一無所有
「私」は伽藍堂
「我」是伽藍堂
後ろ向いたつもりも⽬を背けたつもりも
不論打算不加理睬還是打算視若無睹
背中⾒せて在らぬ⽅へ逃げたつもりも無い
抑或打算以身作則逃往別處之意皆無
愚直に上の空 虚空を眺めては…
愚直而心不在焉 遠眺虛空……
「私」を置き去り 「私」は「現」を貪る
棄「我」而去 「我」貪求着「現實」
咀嚼も出来ぬ程脆く 砂を噛むが如く
無法咀嚼般脆弱 索然無味
「現」で埋めれば 「現」に染まれば 殻の中はカラカラと鳴る
若以「現實」掩沒 若被「現實」玷染 軀殼之中空洞地迴盪
故に何処に⾏く事も無く 但し何処にも辿り着かない 命の重さは微塵も無い
故此未前行至何處 不過亦未抵達何處 生命的重量塵微
姿形が崩れぬ様 ⼈の棘に触れぬ様に
為了不讓形體崩塌般 為了不觸碰他人之刺般*
膨らんだ夢想に剃⼑を… 何も無い
予膨脹的夢想以鋒銳…… 一無所有
「私」は伽藍堂
「我」是伽藍堂
*註解:
伽藍堂:語源自寺院中祭祀伽藍神的堂之中空空蕩蕩,本指「空洞無物的空間」,引申比喻作心靈上的「空虛」、「寂寞」之意
無相:佛教用語,與「有相」相對,指擺脫世俗之有相認識所得之真如實相
⼈の棘:「棘」以「棘がある(とげがある)」解釋,此詞中文為指「態度或言語中帶刺」
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